
たまたま同時期に読んだ『ストーリーが世界を滅ぼす(著:ジョナサン・ゴットシャル)』と『イン・ザ・メガチャーチ(著:朝井リョウ)』。どちらも「物語」をテーマとし、『ストーリーが世界を滅ぼす』は「物語とは」「その構造は」「なぜ人は物語に惹かれるのか」といった抽象的な説明から「物語」へアプローチし、『イン・ザ・メガチャーチ』ではその「物語」を使う、「物語」に没頭する、具体例が描かれている。
両本を読んで考えたことを書き残しておきたい。
①退屈は人を殺す

『暇と退屈の倫理学(著:國分功一郎)』を読んだ時に考えたことだが、暇と退屈は人を殺す。
人は時間が有り余り、やることもないという状態の時、虚無感や孤独感が襲ってくるようにできている。これは人の標準搭載機能だと思う。
退屈や暇の状態になると、不安や恐怖心が湧き上がってくるのは、空腹と同様の生理反応なのだろう。
そもそも人の脳は進化の過程でビジー状態をデフォルトとし、文明の高度な発展のおかげで(またはせいで)、余力ができ脳がビジー状態から解放されてしまうのが現代だ。
「暇を感じることなく、頭も体も動き続けている状態が正常であり、安全」という仕組みになっているため、現代で普通に生活しているとどちらも持て余し気味になり、危険な状態だと脳が判断してしまうのだ。
腹が減ったから飯を食う、の腹が減ったの合図が暇・退屈の感覚に当たる。暇だから何か(情報を取り込んだり、体を動かしたり)しなくてはと急き立てられるのである。
暇は欠乏のサインなのでそのまま放置すれば、不安に繋がる。摂取の必要がなくとも、摂取しなければ不安や焦燥感に掻き立てられる。常に退屈していることは常に生命の危機を感じているのと同義である。不安感や焦燥感が常にある状態が続けば、精神は病み、心が死んでいく。
②退屈を回避するために人類に愛される物語
そんな全人類の悩み解消を担い続けて来たのが「物語」だ。
演劇や本、映画など私たちが物語と聞いてすぐに頭に思い浮かべるものにはじまり、会話やSNSの投稿なども物語に含められる。このあたりの分類や、なぜ人が物語にハマるかの理由などについては『ストーリーが世界を滅ぼす』の中で詳しく論じられている。
「物語」とは、伝達される情報と言い換えることもできる。
元来、人というのは何かをし続けていないといけない性質があり、そこに上手くハマるのが「物語」であった。
そんな「物語」を悪用…とまでは言わないが、お金を稼ぐためや、特定の目的のために利用する大きいもの(企業や団体)がいるから気をつけないと取り込まれるぞ、と警告しているのが『ストーリーが世界を滅ぼす』と『イン・ザ・メガチャーチ』の両本である。
昔から「物語」によって人を動かそうとするものは存在していたが(それこそ宗教などがいい例)、警告されるほどに危険視されるようになった理由は技術進歩のせいだろう。
インターネットが普及し、国や言語を問わず多くの人に届けることができる下地が整いきったこと。収集したデータの解析や情報の取捨選択が一個人単位でできるようになったこと。「こちらもおすすめ!」のレコメンド機能の精度を考えるとわかりやすいと思う。
これまでは「こちらもおすすめ!」の言葉と共に、ただ同じ商品を買った他の人が合わせ買いしたという理由で、マッチ度の低いものが表示されていた。それが今はそこかしこで「こちらもおすすめ!」の文字なく、自分の過去の興味にマッチしたコンテンツが無限に流れてくる。使用しているアプリやサービスが、私自身の好みを把握するスピードと精度が格段に上がっているのは肌感覚でわかるだろう。
そういったデータを使えば、どういう物語で画面の向こう側の人間が、どう動くかも簡単にわかるというわけだ。
③物語に踊らされるのは悪か?
『ストーリーが世界を滅ぼす』も『イン・ザ・メガチャーチ』も「物語」に翻弄される人のかなり最悪な部類のパターンを想定して警告する形になっている。だが、そもそも物語に踊らされることは悪いことなのか。
前述の通り、退屈は人を殺す(主に心を)と思っているので、暇を持て余して病んでしまったり、虚無主義にさいなまれるより、誰かに操作されていたとしても夢中になるものがある状態の方が良いのではないかと思ってしまう。
『ストーリーが世界を滅ぼす』では物語に没頭する先に巨悪があっても人は抵抗できない。「物語」に取り込まれて道を誤った人と同じ環境だったならあなたもそうなっていたはず、と、自由意志など人にはほとんど無い派だったため、「物語」が世に溢れることに抵抗するべきだとしていた。
『イン・ザ・メガチャーチ』ではマーケターの国見さんが唯一物語にハマっていない人として描かれているが、それはそれで人間味の薄い人生ではないか?と疑問を呈すような描写もある。まあ朝井リョウ氏は「物語」を売る側の人間なので、「物語」を完全否定するのはそれはそれでおかしいと思うけれど…。
「物語」に取り込まれないようにと強く抵抗すると、背後には虚無主義や冷笑が控えているのでそれはそれで精神的な健康にとても悪い。
私は小説や映画のような物語然とした「物語」群を好んでいるので拒絶したくないし、『イン・ザ・メガチャーチ』で描かれていた推し活のような、認識させないまま「物語」に取り込む手法を悪として断罪してしまうのも良くないと思う。『イン・ザ・メガチャーチ』で描かれたような過激な資本主義的なやり方には好感は持てないが、推し活のような作られた物語の真っ只中に居る人の自認の幸福度は上がっているはずなので、功利主義的にはアリなのではないかと思ってしまう。
ディズニーランドのアトラクションに乗るように、これは「物語」であるという自覚をしたまま乗っかれるというのが理想だ。多くの人にその思慮分別があると信じたいし、出来ることがあるならばそれを啓蒙することだろう。物語を仕掛ける側が遍く善性をもって仕掛けてくれる世界ならいいのに。

