長年、虚無というラスボスに悩まされ続けている。まるでブラックホールのように日常のそこかしこで、常に、虚無が待ち構えているのだ。
新しいことを始めようと思っているときや、何かしらの趣味を極めようと思っている最中。ふと疲れた拍子や、誰かに否定的なこと言われたり、時間が思うように取れないなど、何かしらの圧力が加わると『この行為を続ける意味はあるんだろうか?』という疑問が頭に浮かぶ。
一度その疑問が浮かんでしまうと終わりだ。そこから先は考えれば考えるほど、結局何をしても無意味である、という虚無に呑まれてしまう。いわゆる虚無主義である。
究極にメンタルの調子が悪いときには、睡眠や食事、果ては生きることさえ、どうせ無に還る存在なのにどうしてやらないといけないんだろうと思ってしまう。
このブログに関しても虚無が襲って来たことは幾度もある。私がこの文章を書くことに意味はあるのか。誰も見ないようなネットの僻地である自覚はある。広く遍く多くの人に読んで欲しいと思っている訳でもないので集客に値する行動を何ひとつとして取っていない。誰かに読んでもらうことを目的としていない以上、誰かに読んでもらったとしても、ブログの存在意味にはならない。
自分の思考のまとめとして書いているが、そもそも思考をまとめて文章に起こすことは自分にとって意味があることなのか?今、自分にとって何かしらの意味を見いだしたとしても、その自分はいつかは消えてなくなってしまう。いつか、未来の名も知らぬ誰かにとって何かしらの価値を生み出すかもしれないという希望的観測を持ったとして、その未来の誰かも、果ては人類さえも、いつかは消えるというのに。と時間と距離のスケールを拡大すればするほど、今自分が行うこと全てが無意味としか思えなくなってしまう。虚無主義の行き着く先である。
虚無主義、とは言ったが、私はこれを主張する気も、その主義に属するつもりもない。むしを虚無とは私にとって大敵であると捉えている。打ち倒すべき大魔王であり、悪であると思っている。
そんな虚無に根本的に勝つ方法がどこかにあるはずだ、と思っていた。使命や大義と言うほど大きなものじゃなくとも、今日と明日を生きる理由みたいなものが私にもできるのだと。だってみんなそういう顔で生きているし。
世界のため。国のため。後の世代のため。自分の子供のため。自分自身のため。
スケールの大小はあれど、『大人』と呼ばれる人はどこのタイミングでこの虚無から逃れ、自分なりの理由を獲得している。だから自分にもそういう理由がいつか見えるのだと思っていた。
そもそも虚無自体が厨二病的なもので『大人になる』という言葉を言い換えると『虚無という存在に勝つ』ということになるのかもしれない。
長年虚無と戦おうとしてきて漸く理解したことは虚無には勝てんということだ。
虚無には勝てない。どんな理由を掴み取ろうとしてもそれは一時的な目くらましにしかならず、根本的に虚無を消す方法にはなり得ない。
一見勝ちに見える大人たちの言葉も勝っている訳ではなく、逃避でしかない。
虚無からは上手に逃げ続けるしかないのだ。闘争ではなく逃走を選ぶより他にない。
虚無を見つめ続けると人は確実に壊れる。何もしないまま横たわっているしかないし、死こそ救済が正解になってしまう。とにかく虚無と真っ向から戦い続けるのは、身体的にも精神的にも健康にめちゃくちゃ悪い。
しんどいのを避けたいのは本意であり、しんどいからこそ虚無を打ち倒したかったのに戦っていると余計にしんどくなるのが虚無である。
死という救済を選び取ることができない以上、現在の自分がしんどくならないためには虚無から逃げるしかないのだ。

