関西人は人類の最先端である。

雑記

 関西人は人類の最先端、あるべき人類の形である、とここ数年信じていた。

 長い歴史の中で、人間は進化を遂げて来た。猿人から原人、そしてホモサピエンスへと。二足歩行を獲得したり、石器や火を使えるようになったり、長いスパンで見るとわかりやすい変化があるが、これと同様に短い期間でも人間は変化し、進歩しているはずである。
 例えば、昭和と令和の時代を比較するだけでも、倫理観や衛生観念に大きな違いが見られる。これを「進化」と呼ぶかは少し疑問だが、「変化」していることは確かである。
 昭和と比べ、令和の衛生観念・倫理観は著しく高い。喫煙できる場所は年々減って行き、おじさんの立ちション姿も見掛ければ驚いてしまうほど珍しいものになり、ポリ袋を開ける時に指を舐めなくていいようにアルコール入りのピンポン玉みたいなものがサッカー台に置かれるようになった。求められる振る舞いが高度になるといった息苦しさはあれど、病気の予防や健康維持の観点から言えば望ましい変化と言えるだろう。
 このように、時代や社会の変化に合わせて、短い年月の間にも人間(個々の人間というよりは、ある程度の集団として捉えた場合の人間)は進化しているのだ。
 短期間でも人間は進化して行く生き物ならば、より進化した集団…つまり『現代社会の価値観の中で一番理想的』と言えるような人間の在り方が存在するはずである。

 理想の人類のことを考えた時。クリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』を見て、「ノーラン映画の主人公は理想の人類…全人類が目指すべき最先端の人間だ!」と思ったことを思い出した。
 ノーラン監督のSF作品に登場する主人公は、皆ヒーローであるが、一昔前のヒーロー像とは少し異なる。合理と感情のバランスが絶妙に良いのだ。従来のヒーロー像は、感情こそが正義であり、無駄なことであろうと何だろうと、大衆の心を動かすことが一番良いことであった。対して、ノーラン監督が描くヒーローは、合理的な解決策を追求すると同時に、家族や知人、主人公の周りの小さなコミュニティに対する愛情も大切にする。
 目的を達成するために最も合理的な手段と言うものを考える時、功利主義、すなわち「全体の利益のためには少数派の意見や存在は切り捨てられてもやむを得ない」という考え方に繋がりやすい。功利主義に陥った際に排除されがちな感情的な側面をも、ノーラン映画の主人公は重視するのである。

たとえば、有名な思考実験である「トロッコ問題」を功利主義的に解釈すれば、「一人を犠牲にするルートを選択する以外に道はない」という、ある種冷徹な判断に至る。しかし、ノーラン作品の主人公は、一人を犠牲にするルートが合理的には正しいと理解しつつも、その犠牲となる一人もまた尊重すべき人間であると考え、何とかして救う道はないか葛藤する。あるいは、犠牲はやむを得なかったとしても、その後、遺族に寄り添うといった人間的な配慮を見せるのである。
 従来のヒーロー像は、合理とか論理とか全て抜きにして、とにかく「全ての人々を救う」あるいは「自らが犠牲となる」といった、感情的に心地よいものが正解とされていた。どれほどご都合主義的な展開が差し込まれようとも、ハッピーエンドこそが最高であり、正しいものであった。
 一方、ノーラン作品の主人公は、合理的な判断(時には少数派の犠牲を伴う判断)を貫きつつも、それを非情に実行するのではなく、人間としての感情や倫理観を失わない。このバランス感覚こそが、現代人類の理想の姿なのではないかと思ったのだ。

 そして、このノーラン映画の主人公たちと同じ気質を持つのが関西人である。(ここでの関西人は特に大阪色を強く含む人たちを指す)
つまり、合理的な判断を正しく良いもの、として重視ながらも、決して功利主義に尖ることなく、感情的な側面も大切にする姿勢だ。
「ケチ」「せっかち」「安価な買い物ができたことを自慢する」などの関西人の特徴を耳にしたことがあるだろう。これらの特性の根底には強い合理主義が存在しているのではないか。
 無駄を嫌い、効率性を重視し、可能な限り費用対効果の高い選択をしようとする。そして、この価値観は関西地域(特に大阪色が強い場合)に広く浸透している。非合理的な行動を取る者が「風変わりだ」と見なされるほど、合理性は当然かつ肯定的なものとして共有されているのだ。
 そして、関西人は愛情深い。…というよりも、家族や知人、狭いコミュニティに対する愛情を表現することを躊躇わない。大っぴらな愛情表現を、格好悪いこととは考えていない。『ケンミショー』などで、インタビューされたおばちゃんが、「旦那が一番大事やねん」とか、酔ったおっちゃんが「かあちゃんが一番大切、そらもう大好き」と公言する場面を見たことがないだろうか。最初はパートナーの悪口や欠点を口にしながらも(関西人的にはこれは面白い話を聞かせようというサービスのつもり)、インタビューの最後にはちゃんと大事に思った上での愚痴ですよ、とでも言うようにストレートな表現が度々出てくるのだ。
 重要なのは、実際に大切に思う云々よりも、そうした感情をストレートな言葉として表に出せることだと思う。おそらく、日本全国、他の都道府県であっても、夫婦間で同様の感情を抱いている人々は数多く存在するはずだ。パートナーを大切に思う気持ちが地域によってそれほど差があるわけでないだろう。しかし、それをこれほどまでに気兼ねなく、また肯定的にテレビインタビューで口に出せる地域というのは、果たしてどれほどあるだろうか。関西以外だと恥ずかしいことだったり、もし自分がそれをするとなるとご近所さんになんて言われるか、知り合いに茶化されるかもと頭を過ぎらないだろうか?ストレートにパートナーへの気持ちを大っぴらにすることが、かっこいいこと、美徳であるという共通の価値観を持っているのが強いのである。文化としてそれが美徳となっていると、大多数がその行動を取ることに抵抗感が無くなる。

 この合理主義と共に感情や愛情も重視する特性に加えて、関西人の価値観のど真ん中にあるでっかい柱。「笑い」である。おもろいことこそが絶対的正義であると言う価値観が本当に強い。
 移民として関西へ来て、何度も驚かされたことだが、東ならばジョークなど言わないであろう性格…大人しめだったり、自己主張のあまり強くない類の子(関西人にも勿論そういう性格の人はいる)までもがちょっとしたおもろい話をするのだ。もちろん自発的に。誰かに強いられた訳でもなく、全く必要のない場所であっても、会話のふとした瞬間にポロっと笑いを取る為のおもろいことを口にする。それくらい、おもろいことは関西人の骨身に染み付いているのである。
 この絶対的正義のお陰で、おもろければ大抵のことは不問にされる。

 例えば奇抜な格好は田舎では好奇の視線を向けられる。警戒とほんのり嫌悪が混じった視線を向けられる。それが関西ではどんな格好をしていても、おもろいの前では些細なことになる。多少性格や能力に難がある人も、おもろければ悪い人ではないからと周りが助けてくれる。
 面白いこと、だけが絶対的正義、かつか、良いことという価値観が根強く共有されているが故に、それ以外のものの価値観は多様性に開かれるのだ。
 遠くの地から関西へ移住した私は、関西を幸福の国だと思った。 遠くの地から関西へ移住した私は、関西を幸福の国だと思った。そさはて全国民が自分と同じように関西人を好きだと思っていた。
 ところが。ある時、インターネットの世界で関西人嫌いの意見が目に入った。それに賛同する意見も少なくはない…。目から鱗だった。だってこんなに幸福そうな場所は他に見たことがなかったし、自由度も高く感じている。そりゃあミクロな視点で見れば嫌な人、感じの悪い人、善良とは言い難い人もいるだろう。だが広い視点で見れば私には全国一幸福度が高く見えていたのだ。
 そして幸福度調査を調べて見た。幸福度調査が必ずしも私の考える幸福と一致している訳ではないけれど、ひとつの指標にはなる。結果、幸福度調査は特別高い訳ではなく…なんなら2024年の大阪に至っては最下位に近い…。自殺率や離婚率を調べても他の県と比べて大きく抜きん出ている数値は一つも見つけられない!
 私がこの土地が持つ文化的な性格が性に合っていて、私が幸福だと思う要素とマッチしているだけなのだ…。私にとっての最先端のあるべき人間像に当て嵌まっているだけで、決してそれは他の人の、まして皆んなの総意ではない。価値観の多様性が謳われて久しいけれど、それでも皆んなが思う正解がある、と思ってしまうのは悪い癖かもしれない。確かなことは、自分にあった場所、文化、好ましいと思える特色がある土地が確かにあって、その土地を探したり作り出す努力をすることだ。